海辺にただようエトセトラ

音楽や映画、本の感想をつらつらと。

ミッドナイトスワン(2020年,内田英治監督)

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草なぎ剛演じるトランスジェンダーの主人公と親の愛情を知らない少女の擬似親子的な愛の姿を描いた、「下衆の愛」の内田英治監督オリジナル脚本によるドラマ。故郷を離れ、新宿のニューハーフショークラブのステージに立つ、トランスジェンダーの凪沙。ある日、凪沙は養育費目当てで、少女・一果を預かることになる。常に社会の片隅に追いやられてきた凪沙、実の親の育児放棄によって孤独の中で生きてきた一果。そんな2人にかつてなかった感情が芽生え始める。草なぎが主人公・凪沙役を、オーディションで抜擢された新人の服部樹咲が一果役を演じるほか、水川あさみ真飛聖田口トモロヲらが脇を固める。(https://eiga.com/movie/92113/より)

※本記事は作品の展開に触れますのでご注意ください。

7.6/10.0

これまでの邦画が描かなかった「深いところ」に踏み込もうとする気概や、実際に差別を受けているLGBTの方への誠実さが非常に感じられる。草彅剛という、日本で多くの人が知る俳優を主演に据えた、従来の邦画とは一線を画す意欲作。

一方で映画的に首を傾げざるを得ない部分も多々ある。さらには実際にLGBTの方が生きる2020年の社会で、ここまで「悲劇的な物語」を作ると、当事者の方たちが浮かばれないのではないかと感じた。

そういう意味では、この映画は僕自身に他の映画以上に「考える場」を提供してもらった。この映画にある「ズレ」が、「観客自身に考えさせるための意図したモノ」だとしたら凄いと思う。

まずは、良かったところを

出演する役者陣の演技はどれも素晴らしい。評判通り主演の草彅剛の佇まいは圧倒的。もちろん当事者でない人間がトランスジェンダー役を演じることの問題はあるだろうが、それは日本の映画産業の構造上の問題であると思うのでここでは触れない。少なくともこの作品の凪沙は、本作を観た観客の心に深く残る人物になるだろう。

もう一人の主人公である一果を演じる、新人の服部樹咲の演技も素晴らしい。
序盤の心を閉ざした演技は少し力みすぎている印象もあるけど、不器用ながらも徐々に心を開いていく過程を丁寧に演じきっていた。すらりと長い手足で披露されるバレエ演技も美しく心奪われる。

他にも脇を固める水川あさみ佐藤江梨子も、病んだ社会の母親を見事に体現していた。これまで「ヒロイン」を演じてきた女優たちの新たな側面を引き出したのは監督の功績だろう。本作は役者による剥き出しの演技が最も見どころだと感じた。

疑問に思った点

シリアス一辺倒な展開

役者陣の演技が素晴らしい一方で、作劇として疑問に残る部分がかなり多い。
まず全体を通して、物語の展開が「これでもか」と悲劇の連続が続いていく。

カメラワークや画面の色調もひたすら重く、いかにも「深刻なシーンです」という面構えの画面が延々と続くのは、観ていてしんどい。

これは個人の好みの問題になると思うが、「深刻なシーンを、深刻に写す(正確には写し続ける)」のはあまり映画として好きではない。例えば現代社会の辛さを描く『家族を想う時』は悲劇的な映画だが、ケン・ローチ監督はギャグシーンも交えて「映画としてのテンポ」を意識している。

これは邪推だけど、本作は「いかに悲劇的なシーンを入れて観客を悲しませるか」と主眼に置いているような気がする。
もちろん、本作で起こる悲劇は実際のLGBTの方の体験に基づくモノであると思う。しかしだからと言って悲劇満漢全席な様相は少し受け入れがたい。
例えばショーパブでの勤務の一幕なら、もっと明るいやり取りだって日常に存在しているはずだ。

定型的すぎる差別描写

劇中で見られるLGBTへの差別的な描写が定型的過ぎるのも気になった。
具体的には以下のようなシーンだ。

  • ショークラブで女連れの男客が凪沙たちを指して「男でこんなに綺麗なんだから、女のお前らもっと努力しろよ」と言い捨てる
  • 凪沙が就職活動の面接で、企業の中年男性の課長から「LGBT流行ってますよね。僕も勉強しています」と言い放つシーン
  • 高齢者の凪沙の実母が、「トランスジェンダーは病気」だと思い込んでいる

これらのシーンは、誰がどう見ても「100%アウト」「明白な差別行為」ではないだろうか。少なくとも、この映画を選んで観るような人たちは「ダメな行為」と認識できるはずだ。

もちろん、こういった差別をLGBTの人たちが今も受けているのだろう。しかし、今の社会に存在するLGBT差別は、もっと複雑だったり、表層的には差別と見られないようなモノが多いのではないかと思う。

例えば同時期に上映されたゲイ男性の恋愛映画を撮った監督の「同性愛も普通の恋愛と同じ」というような発言など、一見「LGBTに理解がある」というスタンスの人間の「うかつな言動」にも傷つけられたりしているのが現状だろう。

難しいのは百も承知だけど、そういった「曖昧な差別」の存在にこそ、この映画はスポットを当てるべきだ。これでは単に観客に「差別はダメだよね(自分はしていないけど)」と思わせるにとどまってしまっている。

「自分も知らないうちに差別に加担していた」という観客に気づきを与えるような描写を入れるべきだったように思った。

説明、描写不足

これは単純に映画としての問題点だが、話が途切れ途切れで放置されているモノが多い。

凪沙の母親が、凪沙に一果の世話を任せるのだろうか?

まずそもそもの設定だが、親戚とはいえ(戸籍上の)独身男性の家に、中学生の少女を預けることが現実的だろうか。
凪沙は実家にカミングアウトをしていない設定なので、母親は東京に住む独身の息子の家に、広島の孫娘を預けたことになる。

叔父と従姉妹の間柄とは言え、虐待を疑われた子供に児童相談所がそのような判断を下すのだろうか。これは単に僕の知識不足なのかもしれないが、設定の前提を疑問に感じた。

一果のバレエの上達が急すぎる

一果のバレエの上達具合も気になる。
初回の体験レッスンでは振りに癖があって周りの練習生もクスクス笑っていたくらいなのに、以降のシーンではいきなりバレエが上達して先生の一番のお気に入り生徒になっている
本来だったら

  • 体験レッスンの時点で常人離れした体幹など(?)を披露して、コーチが素質を見抜いた
  • 一果が人知れずメチャクチャ自主練をして上達した

といった描写が必要なように思えるが、こういったシーンは記憶にない。
最終的にはバレエの先生は自腹でレッスンを指導しているようだし、彼女の成長があまりに省略されているように感じた。

りんの扱い

最も疑問なのは、重要なキャラクターである一果の東京に来ての友人りんについてだ。
彼女は一果が来る前はバレエの先生のお気に入り生徒であったが、一果が来てからはなおざりになってしまっている。にも関わらずりんは一果にとても優しく接する。

高価なバレエ用品のお古を無償であげたり、バイトの仲介*1をしてくれたりする。

実はりんは、一果に恋心を抱いていたことが劇の中盤で判明する。りんは靭帯を痛めたせいでバレエが続けられなくなり、弱った状態で彼女へ実質的な告白をする。

一方で成金家族の空気に圧迫されて家に居場所を見出せなかったりんは、父の部下(?)の結婚式で、バレエを踊りながらビルの屋上から飛び降りてしまう
バレエを失ったこと、自分のセクシュアリティを家族が受容しなそうなこと、自殺には様々な要因が推測されるがこのシーンはあまりに唐突で、しかも以降りんの話題は一切出てこない

同年代の親友ともいえる少女の自殺を、一果がどう受け入れたのかが一切描かれないのは、さすがに映画として不誠実だ。自殺が唐突なのも相まって、LGBTにとっては今の社会は生きづらい」という記号でしかりんが扱われていないようで気の毒に感じた。 

ノベライズ小説の存在

この映画を観終えた時は「もしかして原作ありの映画化だから展開を圧縮したのか?」と思ったけれど、実は監督自身が手掛けたノベライズ小説があることをネットで知った。
もしかすると小説内では上記の疑問への回答があるのだろうけど、それはダメだと思う

小説発の企画ならまだしも、映画も小説も監督自身が手掛けているのなら「抜けている部分は小説で」というのは、映画作品としてかなり不誠実。

どうも内田英治監督には「盛り込みグセ」のようなものを感じる。物語を紡ぐ上で「あれもこれも」となる心理は理解できるが、尺も、情感も2時間の映画という枠に収まっていない印象だ。

 

長々と書いてしまったが、それだけ僕自身心を動かされた一本であったということははっきりと書いておきたい。
それにしても元SMAPのメンバーは全員役者としての個性があるので、逆にグループでなくなった今こそ、俳優として共演する映画が観たいなぁと思う。

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*1:まぁぶっちゃけ内容は撮影会のモデル参加という、法的にグレーなビジネスだし、嫉妬から個撮の誘導をするが、それものちに反省している。