海辺にただようエトセトラ

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武将を英雄視しない映画〜『ナポレオン(リドリー・スコット)』と『首(北野武)』

「時の武将」を英雄視しない映画

今年、多くのファンのいる映画監督の最新作が公開された。
一つはリドリー・スコット監督の『ナポレオン』で、もう一つは北野武監督の『首』だ。
2つの作品は扱う時代は違えど、作品の根底に共通しているものがある。それは「時の武将」を描きつつも、その武将をまったく英雄視せずに描いている点だ。

カリスマ性の欠落〜『ナポレオン』

ナポレオンといえば庶民の味方として革命を率いた英雄……というイメージが一般的であるが、ホアキン・フェニックス演じる彼を見ていても、ちっともそのような人物像は浮かび上がってこない。

妻であるジョゼフィーヌが浮気したと新聞に書き立てられれば戦場を放り投げて帰国し、妻をヒステリックに怒鳴りつける。愛のないセックスを要求したかと思えば、親戚もいる食事の場で自分たちに子供ができないことを妻のせいと決めつける*1

これらの行いが、ナポレオンが妻に依存する故の行為であることは劇中では度々示されるものの、やはり尊大な振る舞いにはゲンナリさせられる。

これは同監督の傑作である『最後の決闘裁判』『ハウス・オブ・グッチ』同様にフェミニズム的な視点を取り入れていることは明白で、真の主役はジョゼフィーヌと言っても過言ではない。

そのような監督の作品の描き方・姿勢には賛同できるものの、やはり英雄でないナポレオンの半生をコッテリ2時間半のフィルムにされても、観客として楽しめる部分は正直あまりない。

映画の終わりにはナポレオンが率いた戦争で死んだ人間の数などが画面に表示される。
確かに、今現在地球でも戦争や虐殺が繰り広げられている状況を考えれば、ナポレオンをお気楽に英雄として崇めたくもなくなる。

映画的なカタルシスを徹底的に削ぎ落とし、ナポレオンという人物の愚かさにフォーカスすることが監督の狙いなら、この作品の退屈さにも頷けるものがある。

男色が破滅を生む戦国武将たち〜『首』

北野武監督の5年ぶりの映画作品がまさか時代劇になるのは個人的には意外だった。
だが蓋を開けてみると、「アウトレイジ」よろしく組織内で様々な男たちの思惑が蠢く様子は、確かにこれまでの北野映画にも通ずる、というかヤクザ映画の舞台を戦国時代に移したものと言ってもいい。

もちろん単にドンパチする俳優たちがチョンマゲ姿になったわけでなく、一層のホモソーシャル化や男色信仰を際立たせて、従来の作品とまた違う一面を感じられる。
史実がどうであったかはさておき、『首』の世界では男同士抱き抱かれの関係を持たないと政治的にのし上がっていけない。

特に信長においてはその思想の急先鋒といったところで、お気に入りの部下なのにアプローチをかけてこない明智光秀には愛憎入り混じるパワハラを繰り広げる。
特に今回のキーマンとなる荒木村重は信長とも光秀とも懇意にしており……と泥沼の様相が描かれていく。

一方、北野武演じる秀吉は百姓上がりのため「武士の嗜み」たる男色の気がなく、他の武将からのアプローチもない。
日本を代表する俳優がこぞって出演する中で、年が一つ抜けた武がそんな秀吉を演じると一層に説得力が増す。「あのおじいちゃんより、いけたおじさん同士仲良くやろうぜ」という空気が形成されているように感じられた。

後の歴史のあり方をなぞり、男色にとらわれた武将はみな死に、醜女好みの家康と「庶民感覚」の秀吉が生き残っていく様は痛快なれど、特段誰にも憧れも感情移入することもなく映画を観終える。

戦争は、「大量の個の殺人」

冒頭でも書いた通り、この2作では武将たちのヒロイックな部分は意図的に削ぎ落とされている。
監督の意図はそれぞれにあると思いつつも、2023年の現在にそうした姿勢で映画を撮ろうとしたことに、共通性を見出さずにはいられない。

どちらの作品も「戦争」を切り口に描いているが、人の生き死ににフォーカスすればそれは「大量の、個の殺人」にほかならない。
それらの指揮を行う人物は果たして英雄なのだろうか……その様な問いかけが聞こえた気がした。

*1:後のおぞましい実験で、確かに妻が不妊体質だったことはわかるものの、それでも酷い