海辺にただようエトセトラ

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KREVA 『愛・自分博』

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ソロヒップホップアーティストとして初のオリコンウィークリーチャート1位に輝いたKREVAの2ndアルバム。2006年発売。

M-1 H.A.P.P.Y
M-2 国民的行事
M-3 It's for you
M-4 いいと思う
M-5 island life feat. SONOMI
M-6 イッサイガッサイ
M-7 涙止まれよ feat. SONOMI
M-8 江戸川ロックオン feat. CUEZERO, WADA
M-9 暗闇のナビゲイラ
M-10 トリートメント feat. DABO, CUEZERO
M-11 スタート
M-12 My Life

8.5/10

オリコントップになったこともあってか、本作は発売当初ヒップホップ好きからは非常に賛否両論だった印象が強い。「否」の理由の大半が、「シングル曲がポップだ」というものだ。
シングル曲を見ると「イッサイガッサイ」「スタート」「国民的行事」が並ぶ。いずれもいまだライブでも定番の曲で、クレバのキャリアで最も知名度の高い曲たちだ。これらが次々と投入されたことに「クレバはセルアウト(=魂を売る、転じて売れ線狙いになる)が目的なのでは?」という観点から、批判的な意見が出ていたような気がする。

まずは、それらに対する誤解を解いていきたいと思う(あくまで個人的な解釈に過ぎないけれど)。まずクレバは、そもそも本作で「売れ線」を明確に狙っている。だが、それはいわゆる自分の信念を曲げて、レコード会社の策略に乗っかったとかそういうわけではなく、自ら推し進めていった路線である(その根拠は後述します)。
その理由としてこれらの楽曲には「ヒップホップミュージックにしかない面白さを、J-POPフィールドに浸透させたい」という意図があったように思えるからだ。

出されたシングルの楽曲を振り返ってみよう。「イッサイガッサイ」では「コールアンドレスポンス」、「国民的行事」では「大ネタサンプリング」や「若手トラックメイカーのフックアップ(イントロでネームドロップまでしている)」などの要素がある。ヒップホップに親しみのないリスナーに向けて、ヒップホップという音楽しか持ち得ない魅力を分かりやすく提示しているのだ。

「スタート」は一聴すると失恋の曲に感じるが、これは当時クレバが絶大な信頼を置いていたスタッフが、彼のチームを離れることになったときの心境を曲にしたと、本人もインタビューで答えている。極私的な体験を大衆向けにアップデートできる感覚も、ヒップホップというパーソナルな音楽ジャンルだからこそ成せることなのでは、と思う。

さらに言うと、このヒップホップ要素を大衆レベルに分かりやすく伝えることを目的としていることは、すでにアルバムの冒頭で宣言されている。M-1の歌詞を引用すると

時代の最先端/世界レベル/野暮なランキングだったらはみ出てる/そんでフィットしている国民性/これはアンビリーバボー職人芸

とある。最先端のサウンド(制作姿勢)を提示しながら、ヒットチャートを制することすらも宣言(というか予言)しているのだ。そのふてぶてしさ、不遜さをヒップホップと言わずして何をヒップホップと言えよう?

そして本作は「ポップ」ではなく、どちらかというと「メロウ」な雰囲気に包まれたアルバムだと思う。メロディアスな曲をひとくくりに「ポップ」と断罪せずによくよく聞き込めばその感覚も理解できるはずだ。ソウルもののサンプリングを主体に組まれたトラック郡は、BPM90前後に統一され、アルバム全体がクロスフェードを多用しつながれている。
この演出は、まるでメロウもの楽曲を集めたミックスCDのように聞こえる。ほかにも同郷のラッパーと地元ソングを作っていたり(M-8)と、至る所にヒップホップ的要素が散見される作品だ。

リリースから10年経った今、ソウルものに寄ったヒップホップ作品がまた台頭しているように思う。その潮流に合わせ、クレバには本作をアップデートした作品を作って欲しいところだ。

M-6 イッサイガッサイ

M-11 スタート

 

M-2 国民的行事