海辺にただようエトセトラ

音楽や映画、本の感想をつらつらと。

交響詩篇エウレカセブン ハイエボリューション1

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2005~06年にテレビ放送されたSFロボットアニメ「交響詩篇エウレカセブン」を新たによみがえらせた劇場版3部作「交響詩篇エウレカセブン ハイエボリューション」の第1部。テレビシリーズの物語を再構成し、新作映像と再撮影映像を交え、すべてのセリフも再構築。作中で何度か言及されてきた過去の大事件「ファースト・サマー・オブ・ラブ」を初めて映像化し、新たな物語を紡ぎ出す。10年前に世界を揺るがせた大事件「ファースト・サマー・オブ・ラブ」で父アドロックを失った少年レントンは、辺境の街ベルフォレストで単調な日々を過ごしていた。そんなある日、LFOと呼ばれる人型マシンのなかでも世界最古の機体「ニルヴァーシュ」がレントンの前に降り立ち、そのコクピットからエウレカと名乗る少女が姿を現す。偶然の出会いから旅に出ることになったレントンエウレカだったが……。(http://eiga.com/movie/86717/より)

8.7(冒頭)、6.5(本編)/10.0

「ありものの素材に別の視座を加えて、新しい物語を立ち上がらせる」という制作側の心意気はわかるのだが、肝心の映画そのものが「もう少しなんとかならなかったのこれ?」と言いたくなる出来栄えで、少々困惑している。

序盤の20〜30分の、完全新規作画で描かれる「ファースト・サマー・オブ・ラブ」がかなりハイクオリティで、音楽と戦闘が渾然一体となってアドロックのエモーショナルな心境と溶け合う様が本当に美しく、ここで鑑賞中のハードルが相当に上がってしまったのもあると思うのだが、それこそそのハードルを上げたのは制作側のあんたらだろっ! と言いたいわけで……。

本作の構造をざっくりと書くと、冒頭の「サマー・オブ・ラブ」完全書き下ろし部分と、設定を今回の映画用に微調整したテレビの総集編部分に分かれるのだが、とにかくこの総集編部分がかなりわかりづらい構成になっている。
アニメでいうと25話の部分までをレントンのモノローグ形式で振り返りながら駆け足で物語を転がしているのだが、時系列が行ったり来たりして相当見辛い。おそらく『(500)日のサマー』的に、主人公レントンの感情から生まれる物語を連想ゲーム的に描きたかったのだろうが、素人目に見てもそれぞれの展開があまりも唐突で編集のセンスがないと言わざるを得ない。

また、新しく加えられた設定も本来あった物語から無理やり作り出しているから、ストーリーとしては原典よりも泣けるものになっているはずなのに、感情移入しにくい。
その代表的なエピソードが、レイとチャールズがレントンの養父母であるという設定だが、少なくとも夫妻がレントンを幼少の頃どう育てていたのかは書きおろすべきだったのでは? と思う。
この設定は、本来の育ての親だった祖父役の声優が亡くなっているゆえの「大人の事情」なのかは不明だが、レントンビームス夫妻の間にある信頼感がどのように育まれてきたのかが全くわからないのだ。

あとエウレカセブンといえば「ボーイミーツガールもの」と言ってもいいくらい、レントンエウレカの関係性が、下手すればロボットアクション以上に重要なファクターとして描かれているのだが、今回エウレカが劇中にほとんど出てこない。
先述の新設定の親子関係に比重を置いているから、というのもあるが、制作側は物語の表側に“敢えて”エウレカを出さないことで、存在感を出す意図なのかなと思い「それはそれであり」と感じたが(何度も書くがそういった意図に編集センスは追いついていない)、大衆アニメでその描き方をされても文句の声があがるのは避けられない。

さらにいえば、エウレカも自身の気持ちに気付いたからこその26話のカタルシスなわけで、そうなるとレントンだけでなく、両者の視点から描いた方がスムーズに進むと思うのは素人の発想なのだろうか。

本作がやっていることをわかりやすく言ってしまうと、『新世紀エヴァンゲリオン DEATH(TRUE)2』だ。総集編でありつつも、決して新規のファン取り込みを目的としたダイジェスト版ではない。

昨今のアニメ業界には、50話(4クール)編成で一貫したストーリーを展開できる体力がないのが現状だ。このような長大な作品こそ、当時を知らない若いアニメファンが触れるべき機会だと思うので、このような「新規お断り」的な構えは正直どうなの? と感じてしまう。

書いていくと文句ばかり出てきてしまってアレだが、尾崎裕哉の歌うエンディングテーマは素晴らしかった。あれ以外の曲は考えられない。次回以降に期待。