海辺にただようエトセトラ

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新世紀エヴァンゲリオン劇場版 Air/まごころを、君に(1997年,庵野秀明 総監督)

1995~96年に放送され、社会現象を巻き起こしたテレビアニメ「新世紀エヴァンゲリオン」の劇場版。テレビ放送時に物議を醸した最終2話を、完全新作として描きなおした完結編。テレビシリーズ第24話から分岐し、もうひとつのエンディングとなる第25話「Air」と第26話「まごころを、君に」で構成される。

最後の使徒であった渚カヲルは倒されたが、カヲルを自らの手で殺めたことにより、碇シンジは深く心を閉ざしてしまう。一方、「人類補完計画」を進めるゼーレは、NERV(ネルフ)司令・碇ゲンドウと決別。NERV本部を制圧すべく、戦略自衛隊や量産型エヴァンゲリオンを次々と投入し、本部は凄絶な戦場と化していく。

第25話「Air」の一部は、1997年3月に公開された劇場版「シト新生」内の「REBIRTH」編で公開済みであったが、アフレコや画面の修正などが若干行われている。

2025年10月には、「エヴァンゲリオン」シリーズ30周年を記念した上映企画「月1 エヴァ EVANGELION 30th MOVIE Fest.2025-2026」にて期間限定リバイバル上映。(https://eiga.com/movie/37279/より)

9.8/10.0

本作は逼迫した制作スケジュールや、徐々に病んでいく監督本人のメンタルなど様々な事情で「シンジの内面世界」のみを描いて終えたテレビシリーズに対し、「シンジの外側」では何が起こったかを映画作品として描いた最終回である。

怪我の功名というべきか、新たな制作体制を敷いた本作の作画クオリティはテレビシリーズから一線を画すものである。個人的な印象になるが、本作は新劇場版シリーズ含めてもエヴァ史上最もクオリティが高いと思う。
こうした高クオリティな映画作品による最終回を実現するために、テレビシリーズを意図的に「不完全なもの」として放映した節もあるのでないだろうか。*1

様々な衒学的も言える要素や設定を、スタイリッシュなアニメーションで表現したエヴァンゲリオンは多くの人を虜にしていった。

同時にそうした要素を「難解」として敬遠してしまう人もいるだろうが、エヴァの話の根幹は庵野秀明が語ったように「主人公が何度も同じ目に遭いながら、ひたすら立ち上がっていく話」であると考えれば、全ての物語に納得がいく構造になっている。

最終回となる本作をシンプルに紹介するなら、「フィナーレに相応しい困難が待ち構え、シンジがそれをどう乗り越えていくのかを見守っていく物語」である。

真に心を通わせられる人物(カヲル)が使徒だったと知り、その裏切りに絶望し自ら殺めてしまったシンジ。その拠り所として体・心の自由が効かないアスカに対する侮辱行為でさらに自傷を行う。

そんな自己嫌悪の状況で何とか自分を奮い立たせるも、初号機の元へ向かえばベークライトで固められそもそもエヴァに乗り込むことは叶わない……こう書いていくと本当に悲惨が畳み掛けてくる状況で、ようやくエヴァに乗り込めるもアスカの乗る弍号機は跡形もなく破壊され、精神崩壊の末に人類補完計画が成立していく。

実に多種多様な困難でシンジを苦しめる状況は、作品が世に広まることで変化した庵野自身の心情が生々しくフィードバックされていった結果なのだろう。セールス的な期待、批評面でのフラストレーション、実制作におけるトラブル……どれも本人にしかわかり得ないプレッシャーではあるものの、この作品を通じてその一端を想像することはできる。

そうした絶望を通じても、最後には他者のいる世界を望んだシンジ(庵野)には拍手を贈りたい気持ちになる。
なので本作と鏡合わせのような構造のテレビ版の最終回は、一見すると唐突だが実に筋が通ったものであることが分かる。

同時に他者がいる世界では、再び傷つく可能性もある。最後のアスカの拒絶とも取れる一言は、現実世界が自分の思い通りにならないことを描いた誠実な終わり方だと思う。

 

*1:庵野秀明の当時のインタビューを読むと、あながち邪推とも言えない。