海辺にただようエトセトラ

音楽や映画、本の感想をつらつらと。

村上春樹『女のいない男たち』(文藝春秋,2014年)

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舞台俳優・家福をさいなみ続ける亡き妻の記憶。彼女はなぜあの男と関係したのかを追う「ドライブ・マイ・カー」。妻に去られた男は会社を辞めバーを始めたが、ある時を境に店を怪しい気配が包み謎に追いかけられる「木野」。封印されていた記憶の数々を解くには今しかない。見慣れたはずのこの世界に潜む秘密を探る6つの物語。村上春樹の最新短篇集。(Amazon商品紹介より)

7.0/10.0

濱口竜介監督の最新作『ドライブ・マイ・カー』の原作ということで読了。
映画は本作収録の「ドライブ・マイ・カー」をベースに、ほかの短編の要素も加えているようだ。

熱心な村上読者でもないが、やはりページを開くと文章は巧く、僕が好きな作家たちの文章にも大なり小なり影響を与えているのだろうなと感じさせる。
本作は連作、とまでは言えなくとも「女性に去られた男性」を主人公に物語が進み、短編によっては各物語の世界が繋がっている。一貫したモチーフで編まれた短編集だ。

特に面白かったのは「ドライブ・マイ・カー」……ではなく、「独立器官」と「木野」の2篇。
「独立器官」は親の美容整形クリニックを引き継いだ中年医師の物語だが、ミシェル・ウェルベックの小説で取り上げられるテーマを村上流に調理しているように感じ、興味深かった。

「木野」は後半になるとガラリと雰囲気を変える物語のテンポが良い。ぐいぐいと引き込まれていき、不穏さしか感じないラストは強く印象に残る。

しかし、各短編の物語やメタファーの置かれ方には大変興味をそそられる一方で、いくつかの文章表現でつまずいてしまうのが残念に思えた。
例えば「ドライブ・マイ・カー」の一節。主人公家福が、彼のドライバーとなる渡利みさきと初めて出会う場面は、以下のような文章が続く。

彼女はおそらくどのような見地から見ても美人とは言えなかったし、(中略:以降着ている衣服の特徴が並べられ)胸はかなり大きい方だ。

第一印象での「女性への品定め感」がかなり強く、読んでいてしんどい。
ドライバーとして雇うだけの人間への視線に感じないし、何より、渡利みさきは家福が亡くした娘と同年代の女性なのだ。そうした年齢差がある中こうした眼差しを向けてしまうデリカシーのなさに辟易してしまい、物語が頭に入ってこない。

これは家福の人格を表現したもの、と判断できなくもないが村上春樹は「決して美人とは言えないが」という表現が癖になっているのが他の小説を読むとわかる。事実本作でも「シェエラザード」「木野」で同じような表現が出てくるからだ。

彼にとって女性はまず「美人」「不美人」の2種に大きく分かれてしまっているのだろう。今の時代の表現方法としてその2つで大別してしまうのは非常に時代遅れだし、ミソジニーを感じさせる表現だ。

ほかにも気になる描写がある。「独立器官」では、主人公の医師・渡会に非常に有能な男性秘書がついている。
彼は渡会が不特定多数の女性との交際におけるスケジュール管理から、旅行の手配までしてくれる。渡会はもちろん彼を重宝していて、

彼は感謝の意を込めて、機会あるごとにハンサムな秘書(もちろんゲイだった)に贈り物をした。

と書かれている。

個人的には何が「もちろんゲイ」であるのかが理解できなかった。
ハンサムな若い男性だからか、男性が男性の秘書をしているからなのか、その有能な働きぶりからなのか……いずれにしても、何かしらの偏見に基づく表現であることは間違いがない。

しかも物語の後半で、語り部がこの秘書に初めて出会う場面ではこう書かれている。

渡会からゲイと聞いていなければ、ごく普通の身だしなみの良い青年にしか見えなかった。

いったい、ゲイの人にどういう偏見を持っていると、こういう文章が自然に出てくるのだろうか……。
語り部の「語り」の背景に、作者自身が持つ思想(偏見)が見え隠れしてしまい、小説そのものに集中できなかったのが非常に残念だ。

この本の「はじめに」を読む限り、村上春樹は短編を書き終えてから掲載する雑誌に「逆オファー」をしているようだ。
そうなるとすでに完成した小説を前にして、編集者が村上ほどのビッグネームに「この表現はちょっと……」など指摘することは難しいことも想像に難くない。へそを曲げてしまって掲載がなくなれば、その雑誌の売れ行きも変わってしまうだろう。

一方で彼の小説を原案とした映画には傑作が多いのも事実だ。『バーニング』も『ドライブ・マイ・カー』も、監督たちは物語の本質を掬い上げつつも、現代的なエッセンスをまぶして(あるいは前時代的な表現は排して)素晴らしい映画作品としている。

そう考えると村上春樹は良くも悪くも「昭和の作家」なのだろう。かつてはおしゃれでナウに感じた文章表現も、令和の世から見るとむしろレトロな雰囲気に感じる。

ものすごく好意的に捉えれば、現代的な解釈を混ぜ込める余地があるのも、古典としての風格が備わっている……と言えるかもしれない。