海辺にただようエトセトラ

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小山田圭吾について、1ファンがこのところ思っていたこと

※こちらの記事は小山田圭吾の行いに擁護の余地は一切なく、いちファンとしてオリンピックの案件を辞退してほしいと考える人間が書いたものです。

まずはじめに

僕は小山田圭吾Cornelius)のファンだ。リアルタイムで聴いたのは『Point』からだ。

オリジナルアルバムは全て持っているし、彼が作曲・演奏を担当しているから手に取る作品も少なくないし、ライブはフェスでも単独公演でも相当数のパフォーマンスを見ていて、その全てで「すげー」「かっこいいー」と、感動したのを覚えている。

彼の昔の暴力問題については、以前よりネットで上がっていた(ブログ記事で引用するスタイルの文章だった)ので、学生時代に一読したこともある。
読んだ当初は、おもちゃ箱のようなキラキラした彼の音楽と、その開けっ広げに過去の暴力を披露する様子がうまく接続されず、混乱した。*1

自分の中では「未成年時代の出来事だし、本人含めた関係者同士で何らかの解決があったのかもしれない」「だからこうして公の場で語っているのだ」とか無理やり納得させていた記憶がある。
尊敬するアーティストの「過去の汚点」を積極的に追う気にもなれず、どこかで何かしらの謝罪はしていたのかな、くらいの認識で彼の音楽活動のみを追っていた。

事実、彼はYMOのサポートメンバーとしてギターを弾いたり、NHKの有名知育番組にもほぼ彼の音楽ありきで起用されている。「何らかの禊は済んだのかな」と勝手に考えてしまっていた。
こうして今思い返すと、あまりに自分に都合よく解釈しているなと思うが、彼の活躍だけを見るとそう判断してしまっていた。それくらい彼は多岐にわたって様々な素晴らしい音楽を作っていたのだから。

セレモニー担当は辞退してほしい

しかし、何もかもがグダグダでなし崩し的なオリパラの開会式(閉会式もか?)のコンポーザーに彼の名前がクレジットされたのはさすがに驚いた。

僕は2012年あたりの招致活動をしていた頃から、この大会を「復興五輪」と嘯いて日本で行うことに一貫して反対だったし、今でも中止して欲しいと思っているので、別に開会式がどうなろうと興味がなかったが、「よりによって一番やってはいけない人が関わってしまっている」とは感じた。

一方でこれは当事者間での何かしらの取り決めがあった上での参加なのかな、とも勝手に推測していた。
いずれにしても個人的な心情としては、誰がオリパラの開会式をやろうとも見るつもりはなかったので(それより溜まっているNetflixを連休で消化したい)、クレジットを見ただけでスルーしてしまった。

しかし良くも悪くも大注目のオリパラであるからこそ、世間では大反発に見舞われた。
これは仕方ないと思っているし、すぐに本人も謝罪文を投稿している。個人的には誠意ある文面に思えるが、当事者間での解決はなされていないようで残念だし、そもそもなんで引き受けたのだろうと感じた。
そして開会式のコンポーザーから降りないのは、選択肢としては完全に誤りだと思う。

もちろん、彼の音楽のファンなら、開会式のセレモニーは、音楽と映像やパフォーマンスが密接に重なるものであろうことは想像できる。
単なるBGM以上の仕事をするであろう彼の音楽を、今から差し替えるのが難しいのは重々承知で、これまで無反省だった(ように見えてしまっていた)ことも含め今後も反省し続け、いちファンとしては今回の仕事を取り下げて欲しい。

契約の面で莫大な違約金などが発生するかもしれない。
しかし最低限でも、例えば今回の仕事での報酬をふさわしい組織へ全額寄付するなど、何らかの誠意を見せてくれることを願う。*2

今回の批判を見て思うこと

小山田圭吾への批判や誹謗中傷はいまだにやまない状況で、その様子を「これもいじめの一種だ」「いや、いじめは弱い立場の者に対してするものだから、これはいじめではない」というような意見が散見されている。
確かに、彼は著名アーティストという意味では「強い立場」かもしれないが、今回の件ではもはや反論のできない「ノーガード状態(弱い立場)」であるのだから、誹謗中傷の類は「いじめ」と変わらないだろう。
さらには彼の御子息のSNSにも執拗な攻撃をしている人が一定数いると聞く。そこまで行けば「今拳を振り上げている人間は、我が振りを見返しているのか?」と問いただしたくもある。

あくまで彼の過去の行い(それは償いも含め)と照らし合わせ、「相応しくない役割から外れてほしい」と表明する。それが「批判行為」とされるもので、人格批判や生死に関わる言葉さえ批判とするなら、結局暴力が暴力をうむ連鎖となってしまうのではないだろうか。
*3

そして一番おぞましいのが、これらのインタビューや企画を嬉々として世間に出したロッキング・オンクイックジャパンだろう。特にロキノンは「ノーチェックインタビュー」を自負しているようだが、さすがにコンプライアンスチェックはしておけよと言いたい。

あとは繰り返し今回の暴行内容を詳細に記載したり、報道する行為そのものも二次加害に当たらないかが心配だ。何よりも被害者の方の心の無事を祈り、配慮することが大切だと思っている。そして、この問題を知りながらもどこか曖昧に受け止めいた自分についても反省したい。究極を言えば「いじめのない社会づくり」を、いち社会人としてどう実現できるのかを常々考えていきたいと思う。

これからも彼の音楽を聴いていく

そして今後も僕はファンとして彼の音楽を聞くだろうし、ライブにも足を運ぶだろう。そこに後ろめたさを感じつつも。「作品と人格は別」と言えるほどは割り切れないが、この世に閻魔帳でもない限り「無垢の人の作品だけを鑑賞する」なんてことはこの先も不可能だ。
今回の件で小山田圭吾の関わる作品に一切触れない人を否定しないが、この先もファンでいる人を否定される筋合いはないと思っている。

※ここでファンなら「彼は音楽は素晴らしいので是非聴いてください!」といってYouTubeのリンクなどを貼るのかもしれないが、そこまでノンデリカシーではありません。

*1:まぁそのある種の「無邪気さ」が、他者へ暴力をふるって、それを軽々しく話してしまうことに繋がるかも、とは思う

*2:そもそも、こうした式典にふさわしい人物であるかが、組織委員で議論もなく承認されたフローにも問題はあると思うが

*3:当時未成年だった人間たちの暴力事件が、当事者間で何らかの和解などがあった可能性も否定できないと個人的には考えるが、そこの判断もないままに叩く姿勢もどうかと思う