海辺にただようエトセトラ

音楽や映画、本の感想をつらつらと。

ハッピーアワー(濱口竜介監督, 2015年)

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演技経験のない4人の女性を主演に、ごく普通の30代後半の女性たちが抱える不安や悩みを、総時間317分の緊迫感あふれるドラマとして描いた。映画学校の生徒たちを起用した4時間を超える大作「親密さ」や、東北記録映画3部作(「なみのおと」「なみのこえ」「うたうひと」)など挑戦的な作品作りを続ける濱口竜介監督が手がけ、スイスの第68回ロカルノ国際映画祭で、主演4人が最優秀女優賞を受賞した。30代も後半を迎えた、あかり、桜子、芙美、純の4人は、なんでも話せる親友同士だと思っていた。しかし、純が1年にわたる離婚協議を隠していたことが発覚。そのことで動揺した4人は、つかの間の慰めにと有馬温泉へ旅行にでかけ、楽しい時間を過ごすが……。(https://eiga.com/movie/82539/より)

10.0/10.0

「他者を理解すること」を丁寧に問いかける傑作

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濱口竜介監督の『寝ても覚めても』を観賞して以来、ずっと規格外の本作を観たいと思っていたが、先日の新文芸坐のオールナイト上映でようやく劇場で観賞することができた。
本作は大きなドラマが起こるでもない、5時間にわたる大作映画なのだが、一瞬たりとも退屈することなく夜明けを迎えることとなった。今後も僕の映画人生の中で燦然と輝く大傑作フィルムとなると思う。

本作は『寝ても覚めても』同様に、根底にあるテーマ(の一つ)は「他者を理解すること」にあると感じた。
濱口監督は、ワークショップを通じて出会った演技経験のない女性4名に焦点を当て本作を作り上げた。その理由は「30歳を過ぎた女性の社会的な立場の弱さ」に注目したゆえだという。

監督自身(=当時30代後半の男性)とは立場の異なる人間を物語の中心に据えること、その行為自体が「他者を理解する努力」と言える。つまりこの映画は、制作の過程そのものも、「他者を理解すること」への批評性にあふれている。非常に誠実な作品であるという印象を受けた。

パート1〜とにかくディテールを掘り下げて、「主人公たちへの共感」を生む

30台後半のヒロインたちは友人同士なれど、離婚経験者(独身)、既婚、子持ち、離婚審議中とそれぞれ立場を異にする。それぞれに感じる社会*1での不条理をうっすらと描くパート1から引き付けられる。
贅沢な尺使いによって、登場人物たちの細かなやりとりがディテール豊かに描かれていく様は圧巻だ。

このパート1で最も引き付けられるのが、「重心を探る」という少し不可解なワークショップの模様だ。
普通の劇映画であれば、尺の都合でワークショップの全容でなく、今後の物語や映画のテーマに関わる部分のみを抽出するだろうが、本作ではワークショップのほぼ全模様が映画内で描写されていく

他者の人体の中心部分(=重心)を探り合うことを主としたこのワークは、もちろん冒頭で書いた「他者の理解」に通ずる行為だ。他者と背中合わせで座った状態で、互いの協力で同時に立ち上がるワーク、互いの額を合わせて相手の思いついた言葉を探るワーク、相手の丹田に耳を当てて内臓の音を聞くワーク……それらをこなしながら、最後は最も難易度の高いワークに臨む。
参加者全員が外向けの輪となり、肩を合わせただけで立ち上がっていく様を観た時は、観客なのにまるで実際にワークショップに参加していたような没入感を得られた。*2

そう、本作は徹底してディテールを描くことで観客に尋常ならざる没入感を与えていく。そうすることで、映画で描かれる人を理解するように促している映画であると感じた。

パート2〜主人公と敵対する人物の登場

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続くパート2は、純の離婚調停裁判から物語は始まる。実は純は、中学からの幼なじみである桜子以外には、自身の離婚調停を話していなかったのだ。そのことがパート1の終わりに判明し、仲間内の空気は不穏だ。

2時間かけて主人公たちをすでに見つめていた身からすると、裁判相手の夫=公平は言ってしまえば彼女たちの「敵」として立ちはだかっている(ように見える)。
公平は常に仏頂面で、仕事も大学の研究職で内容が素人にはいまいちわからない。あまり「人間味」を感じさせない人物として描かれている。

パート2を端的にまとめてしまうと、「主人公たちの敵役」が現れ始めるパートといえる。
例えば桜子の夫=良彦は、桜子と純の中学からの同級生なので、互いに下の名前で呼び合うほど、気の置けない仲である。しかし母親と同居しているため、良彦は桜子が友達と外に出ることをよしとせず、純に「もう今後桜子を誘わないで欲しい」とストレートに告げる。彼も彼女たちの連帯を乱す「敵」と言えるだろう。

あるいはクリエイティブな職に夫婦共に就き、4人の中では最も順風満帆そうな芙美(ふみ)も、編集者の夫=拓也と、彼が担当する若い女性小説家=こずえの関係性に疑いの眼差しを向けている。

パート1でヒロインたちに一気に共感を得た観客は、無意識に彼らの人生を揺るがす存在を敵と認識してしまう。だが、それこそがこの映画が巧みに仕掛けた罠であるとも言えるのだ。

パート3〜「敵サイド」への理解が足らなかった主人公たち

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様々な思惑が交わる中、非常に静かだが、激しいクライマックスが訪れるのがラストを飾るパート3だ。

舞台は拓也が担当する、例の女性作家=こずえの新作小説の朗読会の場だ。
本来であれば「重心ワークショップ」の主宰が朗読会後のトークショーに登壇予定だったのだが、あろうことか途中退出してしまったため、その場にいた純の夫=公平が相手をすることになる。*3

この朗読される小説の内容が、女性の密かな思いが繊細に綴られた内容となっており、ぜひとも活字で読みたいクリティの作品となっているが*4、朗読会後のトークショーの内容も素晴らしい。こずえの書いた小説の細かな描写に触れながら、この物語の本質を探っていく公平の分析/評論がとても面白いのだ。

ここで観客は、主人公たちの敵=人の気持ちがわからない(と、思い込んでいた)人間たちこそが、実は他者を理解することに最も懸命になっていたことを知る*5

続く朗読会の打ち上げも、主人公サイド(芙美、桜子)と敵サイド(拓也、公平、こずえ)による静かな舌戦に引き付けられる。人間味を感じなかった公平が持っていた、大きな愛に主人公たちがたじろぐ様子は圧巻。こちらはぜひ本編で体感してもらいたい。

このパートで圧巻なのは、「他人の気持ちを理解しない人間たち」と断じてしまっていた主人公たちが、実は自分たちこそ、他者の理解を拒んでいたことを知る部分にあると思う 。
本人たちは否定的だったにせよ、公平の吐露する「純への愛」としか言いようのない気持ちを受けて、彼女たちは映画のラストでそれぞれが「ある行動」をとったのは明らかだ。

主人公たちの決断に、心動くラスト

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映画のラストの展開については触れないが、朗読会の打ち上げから一夜明けた朝が本作のラストとなる。
寝ずに様々な行動を起こしていた主人公たちと、徹夜で映画を観ていた観客たちが奇しくもシンクロし、変えがたい映画体験となった。

長きにわたり画面越しに見つめていた主人公たちの決断は、側から見れば小さなものかもしれないが、非常に心を動かされる。
それなりの覚悟は必要であるが、ぜひとも多くの人に5時間の旅に出てもらえたらと思う。長文になると相変わらずまとまりのない記事になってしまうが、書きたいことは書けたかな。長々とお付き合いくださったみなさま、お読みいただきありがとうございました。

*1:それは、家庭を含む

*2:思わず拍手しそうになってしまった。

*3:こずえと公平は、以前取材をしており顔見知りである。

*4:こずえ役の女優さんが役作りの一環で実際に書いたらしく、これも驚愕。

*5:ちなみに、朗読自体は途中で少し途切れてしまったが、トークショーに関してはワークショップのようにフルで収められている