海辺にただようエトセトラ

音楽や映画、本の感想をつらつらと。

永江朗『私は本屋が好きでした あふれるヘイト本、つくって売るまでの舞台裏』(太郎次郎社エディタス, 2019)

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反日、卑劣、心がない。平気でウソをつき、そして儒教に支配された人びと。かかわるべきではないけれど、ギャフンと言わせて、黙らせないといけない。なぜなら○○人は世界から尊敬される国・日本の支配をひそかに進めているのだから。ああ〇〇人に生まれなくてよかったなあ……。

だれもが楽しみと知恵を求めて足を運べるはずの本屋にいつしか、だれかを拒絶するメッセージを発するコーナーが堂々とつくられるようになった。そしてそれはいま、当たりまえの風景になった──。

ヘイト本」隆盛の理由を求めて書き手、出版社、取次、書店へ取材。そこから見えてきた核心は出版産業のしくみにあった。「ああいう本は問題だよね」「あれがダメならこれもダメなのでは」「読者のもとめに応じただけ」と、他人事のような批評に興じるだけで、無為無策のまま放置された「ヘイト本」の15年は書店・出版業界のなにを象徴し、日本社会になにをもたらすのか。

書店・出版業界の大半が見て見ぬふりでつくりあげてきた〝憎悪の棚〟を直視し、熱くもなければ、かっこよくもない、ごく〝普通〟で凡庸な人たちによる、書店と出版の仕事の実像を明らかにする。(Amazonの商品紹介より)

9.0/10.0

※色々書いていたら長くなりました。

まず、はじめに

まず、個人的な考えを表明したい。
僕たちが暮らす社会において、差別的な行為や表現は言語道断であり、あってはならない。

ここでいう「差別」とは、民族的ルーツや身体的特徴といった「生まれながらに持っているもの、変えることができないもの」を理由に、他者の人権をないがしろにする行為だ(下画像参照)。

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いわゆる「ヘイト」を非難すると「表現/思想信条の自由」を盾に言い訳を並べる人がいるが、それは「他者の権利を侵害しない場合において」自由なだけだ。*1

以上の考えにご納得いただけない方は当ブログ(特に当記事)を読んでも不快になるだけでしょうから、回れ右を推奨します。

行きつけ書店での「ヘイト本」との邂逅

僕にとって、あるいは読書を愛する人にとって、本屋というのは「心がワクワクする場所」に他ならない。
小学生のころ、親に連れられて紀伊國屋書店新宿本店に行った時のあの衝撃は忘れられない。小さい街の本屋なら「ここにある本は何年かければ読み切れるのだろう」なんて考えたこともあったが、「自分には一生かかってもこの量を読み切ることはできない」と、紀伊國屋のモダンなビルを見上げて思ったものだ。*2
以来かれこれ15年以上紀伊國屋書店には通い詰めては本を買い集めているのだけれども、ここ5年くらいだろうか、本棚に「違和感」を感じるようになった。
というのも、特定の国の国民性を侮辱するようなタイトルや帯文が踊る書籍の平積みが増えたような気がするのだ。

僕の主な利用フロアは、文芸書の新刊や文庫〜新書が並ぶ2Fなのだが、話題の書籍や雑誌を取り扱う1Fも“ついで”に覗いていく。
書店に限らず商業施設の1Fは、その施設の「顔」となるフロアだろう。そんなフロアに上記のような書籍が積まれているのを見て、大変不快になった。

書店が「ワクワクする場所」ではなくなった。差別を受けていない僕ですら不快になるのだから、当事者にとってはより深刻な感情を抱くことは想像に難くない。

新宿本店への明確な不信

それ以降紀伊國屋書店へ足を運ぶ回数が減っていったが、衝撃的だったのは百田尚樹のサイン本を販売していたことだ。百田は『今こそ韓国に謝ろう云々』*3という書籍を出している(まぁクソみたいな差別的な性根は冒頭に引用したツイートを見れば一目瞭然だが)。それはいわゆる「釣りタイトル」というやつで、帯に目を向けると非常に相手を煽る内容の文言で埋め尽くされていた。「こんな本を書く人間のサイン本まで、“売れるから”と展開するのか?」と嫌悪感を抱き、足が遠のいてしまった。

紀伊国屋書店の売り上げを見れば全国の書籍の売り上げがわかる」と言われるくらい紀伊國屋は国民的な書店チェーンだ。その本店でもある新宿店でこのようなことが行われていることが信じられなかった。あれ以来書籍の購入は近所の書店か、ネット通販に頼ることが多くなった。

本書との出会い

そんなこんなで「紀伊國屋に行くために新宿に行くこと」はすっかりなくなったが、「新宿に行ったついでに紀伊國屋に行くこと」がなくなったわけではなく、時折定点観測のように書棚を眺める。

ある日平積みされた本書を見て、まさに「我が意を得たり」となり手に取った。

書物の内容はある程度予測の範囲内ではあったが、非常に丁寧に取材を重ねて検証されており、本づくり/売りの現場のリアルな声が聞けたのはとても意義深かった。

本づくりのプロセスを「逆流」して紐解く

具体的に書くと、本書は実際に本売りの現場である「書店」、書店に書籍を卸す「取次」、書籍を出版する「出版社」、その出版社より依頼を受けて本を作る「ライター、外注編集者」と、本づくりの過程を逆流するように紐解いていく。

これはとても読者目線に立った作り方になっている。出版ビジネスの特殊性に基づいた「本づくりの過程」を書店から逆順に追うことで、自分が書店で本を手に取るまでの経緯が可視化されるからだ。

そうしたプロセスの解説(「1」)を経て、「2」では出版業界への著者からの提言となっているが、この指摘も鋭いものがある。

出版界は「アイヒマン」か-「流れ作業の連鎖」で生まれる暴力

売れているからと「流れ作業的」にヘイト本を作ってしまっている出版界を、著者は「アイヒマン的だ」と非難する。要は倫理に悖る残酷な行いも、プロセスを細かく切り分けて「作業化」してしまえば、抵抗感なく実行できてしまうということだ。

ましてや「出版活動」そのものも、行為としては「本を出している」だけに過ぎない。
言葉は暴力になりうるが物理的に対象者を殴りつける訳でもないから、出す側としては罪悪感なく行える。その構造自体が問題点を孕んでいることを指摘している。業界内においては勇気のいる行為だったのではないだろうか。

「アイデアを二番煎じ」するのが慣例となったジリ貧業界

また出版不況と叫ばれて久しい「ジリ貧」の状態も、ヘイト本量産の現状を作ってしまっている。

ケント・ギルバート著の『儒教に支配された中国人と韓国人の悲劇 』(講談社+α新書) を編んだ、講談社の編集者である間渕隆は、インタビューで本づくりを「オセロをひっくり返すもの」と表現している。その時の世間のニーズを見据えて、ひっくり返るものを見定める……つまり、出版活動においては特定の思想信条を持たないのだ。

ようするに、売れればなんぼでもいい、ということである。実際、ギルバートで中国批判本をつくったが、インタビュー時は日中友好の本をつくっているのだという。(中略)大手出版社でヘイト本をつくっている編集者のメンタリティはこんな感じではないだろうか。(P.108より)

 中堅出版社である「扶桑社」では以下のような会議のもと、ヘイト本が生まれている。

企画会議では、たとえば「一定の実売率で利益が出るような原価の設定であるかどうか」が議論される。こういう場合、どうしてもヒット作の類似企画が会議を通りやすくなる。(中略)二番煎じ三番煎じのものが増え、全体として「扶桑社新書嫌韓本が多い」というイメージになってしまう(P.112より)

つまり文化形成を担う出版活動よりも、目先の利益重視のというなんとも情けない構造のもと、以下のような悪循環が生まれるわけだ。

  1. 一つのヘイト本が売れれば自社で二番煎じをするし、他社も追随し出版する
  2. それらの本が、取次から書店へ半ば強制的に書店へ届く
  3. 書店としては「こういうジャンルが売れるのか」と同ジャンルの本を書棚にまとめて並べる
  4. ヘイト本コーナーができ、書店でとりわけ目立つ
ヘイト本が書店で目立って見える理由

思えば「ヘイト本」というジャンルは、非常に局所的なものだ。だから少しでも集まっていればそれだけで目立って見えてしまう。
例えば「純文学」というジャンルであれば、別に大きくコーナーを占めていても作家もデザインもタイトルも、ましてや内容すらもバラバラだから(当たり前だが)客は気にならない。

だけどヘイト本はパッと見「赤い」「対象国の国旗がたなびいている」「対象国の指導者の写真が載っている」「とにかく扇情的な文言」とひたすらに画一的なので、ちょっとの量でも集まっていると「圧」が強いのだ。

出版社側も「ほんの数冊」出しているつもりでも、複数社の本が集まることで非常に暴力性を帯びる結果となる。この点は本書では触れていなかったが、個人的に感じたところである。

本書にさらに望みたかったこと

鋭い指摘と丁寧な取材、分析で成り立つ本書は、ヘイト本のみならず出版業界が抱える問題点を俯瞰できる書籍だが、個人的には「ヘイト本レビューリスト」などもあればよかったかなと思っている。

それらの書籍がいかに書いている内容が差別的であるか、あるいは正当な批評本と粗雑なヘイト本の線引きはどこにあるのか、そういった部分を論じて「ヘイト本」を定義づけてくれると、「ヘイト本」の存在を知らない読者にもことの深刻さを受け止めてもらえるのではないかと思う。あまりに文中で「ヘイト本」と書かれているので、「そもそもそれってどんな本?」となる読者もいるのではないだろうか*4
ヘイト本へ嫌悪感を持っている著者がヘイト本を読み、レビューをするしんどさは心中察するが、そういった章もあればより多くの読者へ気づきを与えられると感じた。

終わりに

本書のラストでは出版業界、特に書店への提言がされており、それを全ての書店が実行するのは難しく感じる。
しかし、著者が書いている通り「ヘイト本を“売れるから”と並べていると、それによって離れる客は少なからずいる」はずである。

実際に僕もそうであったことは、冒頭に書いた通りである。

↑「ヘイト本は一切置いていない」と言い切る、青山ブックセンター本店の書店員・山下さん*5のインタビュー。2年前の記事だがとても示唆に富んだ内容だ。

ちなみに売り上げが落ちていた当時「ランキング上位の本を常に揃えよう」と「売れ線重視」の方針をとったら、店舗の売り上げはさらにダウンしたそうだ。以下、引用。

-他にも何か方針はありますか?

 いわゆるヘイト本は一切置いていない。多様な文化や考え方、価値観がある事自体を否定するわけではないけれど、ヘイト本は明らかに何かを貶めている。それを積極的に売れるかと言われれば、売れない。

 ヘイト本ばかりが目立つ店に入ると複雑な気持ちになります。

 置いているお店は、決して考えに賛同しているというわけではなくて、売れるから置くのだと思う。だけど、売れればそれでいいのか? とも思う。表紙を見ると結構インパクトがあって、見たくないというお客様も結構いる。もちろん売上は重要だけれど、ヘイト本を売り続けた先の想像力が足りないのではないか。

うーん、リスペクト。

そしてこの本の存在を知ったのは、僕がかつての「ワクワク」をなくした紀伊国屋書店新宿本店だったことも書いておきたい。決してメジャーでない出版社から出た本書が平積みされていたことが、新宿本店で働く書店員たちの「良心」であることを願ってやまない。

*1:百歩譲って差別的な「思想信条」を持つのは、対外的に表明しない限り「勝手にどうぞ」って感じではある。まぁ人間として終わっているが

*2:まぁその時の気持ちはもう「ワクワク」を超えて「絶望」に近かったけれども。

*3:書名を検索すらしたくないのでうろ覚えだ

*4:もちろん、ケント・ギルバート百田尚樹、古くは小林よしのり戦争論』、『嫌韓論』などの名前は挙がっている。

*5:現在は店長を務めてらっしゃる