海辺にただようエトセトラ

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「ないこと」の否定が「存在」へ繋がる--『バーニング 劇場版』の個人的な考察〈ネタバレあり〉

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というわけで、考察というかネタバレ込みの感想記事を書いていきたいと思います。

概要紹介にとどめた、前回記事は下記から。

一応言っておきますが、ネタバレ全開の内容です。また、あくまで個人の解釈による文章となること、ご注意ください。

この映画は「ミステリ」なのか?

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まず言っておきたいのが、本作の売り文句への苦言だ。本作は「ミステリ」として宣伝されているが、これは少しミスリードではないかと思う。

普通ミステリと聞くと、

  • 謎が起こり
  • それを様々なヒントで探偵(役)が解き明かし
  • トリックや謎が解決される

という一連のパズル的な流れをもって、カタルシスを得られるジャンルのことを指す。

もちろん、「犯人が判明しない」「犯人が分かってもトリックが見破れない」というオチのミステリも存在するが、「物語の中」で解決していなくとも、読者の視点から見ると、物語の着地点はあるものがミステリである。

そう考えると、本作のオチはミステリとしては非常に弱い。ヘミがいなくなった理由も、彼女がどこに行ったのかも明確な答えは出されないし、ジョンスの最後の行動も表面的には理由が明かされない。まるでパズルのピースが揃いきっていないような消化不良を感じる。
「ミステリ」としての謎解きを期待した観客は、期待はずれに終わるだろう。

本作は、あくまで「ミステリの形式を踏襲した、文学的映画」として観賞すべきであって、宣伝文句で大々的にミステリをうたうのはよろしくないのではと思う。*1

そこで本稿では映画の謎解きに関する個人的な解釈も以降で書いていきたいと思う。

序盤の重要シーン「パントマイム」

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本作を読み解くにあたって、村上春樹の原作にもあった(らしい)序盤のやり取りが重要になってくるので、まずはそこに触れたい。

ヘミとジョンスは、再会を祝い酒を飲む。ヘミはアフリカへ出掛ける前に、ジョンスに習っている「パントマイム」について話す。みかんを食べる仕草をしながら彼女はこう語る。

「パントマイムは、“ないもの”を“ある”風に見せるのでなく、“そこにない”ということを頭から取りのぞく行為なの」 

「すると、目の前にはみかんがあらわれ、口の中には唾が広がる。それで私はいつでもみかんを食べることができるわ」 

こうして語られるパントマイムの原理は、映画の根幹部分と直結している

そしてアフリカ旅行に出掛けるヘミから、ジョンスは彼女の猫の餌やりを頼まれる。
しかしヘミ曰く「人見知りの猫」は、前日置いた餌を食べてはいるが一向に姿を表さない。
これもどことなく暗示じみている。

ジョンスの理想の投影としてのベン

まるで「理想の自分」

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アフリカから帰国したヘミは、ハンサムな青年ベンを連れ立っていた。

彼は都会の高級マンションに住み、料理が得意で、愛車のポルシェを駆り、日夜美男美女の友人とパーティを行う何一つ不自由のない男だ。

ジョンスは彼をF・スコット・フィッツジェラルドの小説になぞらえて、「ギャツビーみたいだ」 と評する。ギャツビーは、禁酒法が施行された20年代アメリカで毎晩豪勢なパーティーを開く若き富豪で、その謎多き素性から周りからは流言飛語が飛び交っていた。作家志望のジョンスにとっての精一杯の皮肉がこもった批評だったのだろう。*3

彼が単なる金持ちであったのなら、まだやり過ごすこともできたろう。しかし、ヘミがベンを「オッパ*4」と呼び慕う姿を見るたびにジョンスの心中が穏やかであるはずがない。

一方でベンはそんなジョンスの嫉妬心を知ってかしらずか、ジョンスが「作家志望」と聞くと尊敬の眼差しを向け、「好きな作家は?」と質問したり、周りの友人にも積極的に紹介をする。その態度は友人として非常に好意的だ。

物質的な豊かさと、精神的な豊かさを持ち合わせたベンは、まるでジョンスにない全てを持っている虚像のように見えてくる

理解者でもあるベン

このようにジョンスとベンは、キャラクターとして対比させるとまるで真逆の二人だが、これだけでは終わらない。
ヘミが行方不明になって以降、ベンは今以上にジョンスへの理解を深めるようなアクションをとる。

ヘミの行方をベンが知っているとみて、ジョンスは彼を尾行する。偶然を装って彼の入ったカフェに入ると、ベンはフォークナーの小説を読んでいた。フォークナーは、かつてジョンスが好きだと公言していた作家だった。「ジョンスさんが好きだと言うから読んでみたくなって」とベンは語り、続けてヘミの行方を自分も知らないと言う。

「ヘミは、あなた(ジョンス)が自分の一番の理解者だと言っていましたよ。僕はそれを聞いて嫉妬してしまいました」

そしてベンは、待ち合わせていた新しいガールフレンドとともに愛車で去っていく。
まるでヘミとの出会いは「人生のほんの一部分にすぎなかった」とでも言うように。

自分より社会的地位が明らかに上の人物が、自分が好きな作家を読み出すほどにリスペクトを持って接する。
そして共通の知人である女性が、自分の方にこそ好意を寄せていることまで告げてくれる。何も持たざる青年であるジョンスの射幸心は、「ベンという理解者」の存在によって、非常に満たされたのではないだろうか。

「ジョンスの“ない”=ベン」なのか?

ベンの、ヘミへの執着心のなさもスマートだ。*5ジョンスはこの会話の前(であり、ヘミが消える直前)にベンに

「ヘミを愛している(だから奪わないでくれ)」 

と告白したばかりだ。はたから見ればヘミはベンを好いているため負け戦なのに、ジョンスの見苦しさといったらない。*6
そこまで執着していた女性がいなくなると、目の前のライバルはあっさりと別の女性と親しくデートをする。その潔さもジョンスにはない要素だ。

このように映画を見ていくと、ベンは「ジョンスの“ない”を否定した果てに生まれた男」ではないかと思えてくる。
まるで、ジョンスによるパントマイムで生み出してしまったかのような人間のようなのだ

ベンが犯人であってほしいという願望

そういった視点で見ていくと、ベンはジョンスにとって「都合の言い人物」として映る。

ベンの家で見つけた、ヘミが飼っていたはずの猫=ボイル。ベンのトイレにある、ヘミにプレゼントした腕時計。ベンが趣味とする、「定期的にビニールハウスを燃やす」という犯罪行為。面白いようにベンへの疑惑を増長させる要素が物語上に浮き出てくる

ここもまるで、ジョンスが望んでいた結果を導き出すために生まれたような流れだ

物語の最後、ジョンスは「ヘミが見つかった」とベンを呼び出し、彼を刺し殺す。
そしてベンの車ごと灯油をかけ火をつけて、彼を燃やしさる。彼の返り血がついた衣服は証拠になるからか、ジョンスは着ていた衣服を燃える車に放り込み、全裸でトラックに乗り込み現場を去り、映画は幕を閉じる。

このラストシーンは、様々な解釈が生まれる場面だと思う。個人的には、ジョンスは恋人(になるはずだった女性)の敵討ちというヒロイズムを達成しただけにすぎないと思った。ベンはそもそもジョンスのパントマイムが生み出した仮想(理想)の人間なのだから

結局は、彼自身は全裸でトラックを運転する、文字通り「裸の王様」なのではないだろうか。

「見えない」とすることで存在する、かりそめの世界

話を序盤の「パントマイム」に戻したい。
このモチーフは、これまで記述したドラマ部分以外にも取り上げられている。

南北朝鮮の緊張状態

例えばジョンスとヘミの地元(地名失念!)。ここは、北朝鮮からの「対南放送」が常に流れる緊張感ある土地だ。しかし都会で暮らすベンは、そんな放送の存在すら知らない。

南北朝鮮はいまだ「休戦状態」なだけで、いつ戦争が起こるとも分からない。そんな緊張状態を強いられている現実がジョンスにはあるのだが、ベンにはその実感が「ない」。
まるで韓国、というかソウルの「平和」は、「北朝鮮への緊張が“ない”と思うこと」で存在するものだといわんばかりの設定だ。

カード破産(寸前)のヘミ

ジョンスがヘミの行方を調査する中で、ヘミの経済状況が相当に深刻であったことが、かつての仕事仲間から明かされる。

アフリカへの旅行資金や、整形費用などをコンパニオンの仕事だけでなく、クレジットカードの借金でまかなっていたのは想像に難くない。

カード決済も、目の前にお金が“ない”ことを否定することでモノを得られるシステムだ。

美人になってジョンスの前に現れた、「ヘミ」と言う存在

さらに深読みを進めると、ヘミすらもパントマイムの産物である可能性もある

ヘミの言葉を借りると、ジョンスとヘミは幼少期のころ非常に仲良しだったそうだ。
井戸に落ちたヘミをジョンスが救い出したりするなど、恩義も感じている。

しかし一つ気になったのが、ヘミがジョンスに「私のことブスって言ってたよね」というセリフだ。

僕たちは整形後のヘミしか知らないが、ジョンスがヘミの実家を訪ねるシーンで見る姉や母親は、確かにヘミと似ているとは言い難い見た目だ。*7

しかもジョンスは過去、「ブス」であったヘミを疎ましく思っていたようにも受け取れる。
そこでこれは完全な推測だが、

“自分に親しみを持って接する女子が「ブス」なゆえに疎ましい
=美人な幼馴染が自分を慕っていてほしい”

という願望が、整形後の美人なヘミを生み出したという捉え方もできなくもない。

結論:現実に耐えきれなかったジョンスが生み出した存在としての物語

こう考えていくと、この物語を構成するいくつもの存在は、

  • 父親が傷害事件で捕まったため、実家に戻らざるを得なくなった
  • 文学部卒のため潰しがきかず、フリーターとして日銭を稼ぐ
  • 「小説家を目指す」と語るが、創作活動に打ち込む姿勢も気力もない

という重い現実に押しつぶされたジョンスが、「自分の“ない”を否定」し実体化させたのではないかと思える。
するとこの物語は、創作活動がどん詰まったジョンスの見た幻なのかもしれない。

事実ジョンスは最後、ベンに対峙する前に、ようやくラップトップを開き文字をタイプしている。
タイプする場所は、かつてヘミが住んでいた部屋だ。ここで彼は、もういないヘミに愛撫されることを妄想しながら自慰をしていた。

妄想と現実がないまぜになった彼は、その日々を文字で綴ることによって自身を救い出そうとしたのかもしれない。

*1:もちろん、村上春樹の小説にミステリ的なオチがつくわけはないので、彼のファンなら承知済みのことと思うが。

*2:今見るとこのショット、後々に続くジョンスの絶望を端的に表している。

*3:ちなみに、村上春樹がこの小説を翻訳している。

*4:血縁関係にない年上の男性に、女性が使う言葉。「お兄ちゃん」的な意味が含まれている。日本語になくて良かった。

*5:「スマート」を通り越して冷酷な気もするが……

*6:しかしベンは「ヘミはジョンスを慕っていた」という。その逆転劇もジョンスの欲求を満たしているように思える。

*7:絶妙なキャスティングである。