今年は、個人的に思い出深い小説が次々と映画化された年として印象に残りそうだ。
『パンク侍、斬られて候』『ペンギン・ハイウェイ』『寝ても覚めても』『ここは退屈迎えに来て』……まだ未公開のものもあるが、それぞれが原作の良さを理解し、意味のある映像化をされていて、満足度の高い映画体験をもたらしてくれた。
そんな中で、ほぼ同時期に公開された『ペンギン・ハイウェイ』と『寝ても覚めても』の2本は、アニメーションと実写、SF映画と恋愛映画という違い*1はあるにせよ、ある種の共通点があるように感じた。
いつもは作品ごとに独立して感想を書くのだが、今回は実験的に2本まとめて記事としてみたい。
1.『ペンギン・ハイウェイ』
『ペンギン・ハイウェイ』は、とあるニュータウン的な街で起こる、ファンタジックな出来事を描いた作品だ。
街には突如としてペンギンが溢れかえる。主人公のアオヤマ君は、日々自身の好奇心が向くものを「研究」と称してノートに書き留める、勉強熱心な小学生だ。
さらには自らを「偉い/これからも偉くなり続ける」と自認する、お茶目でマセた男の子でもある。そんな彼を、「少年」と呼んでは仲良くしてくれる歯科医院のお姉さんは、物語のヒロインであると同時に、アオヤマ君にとっては「不思議で未知な存在」でもある。アオヤマ君は「不思議」が大好きなので、お姉さんも研究対象になっている。
ある日、お姉さんは自分がペンギンを作り出すところをアオヤマ君に披露する。ペンギンの大量発生も研究テーマにしていたアオヤマ君は、クラスメイトの研究仲間と共にますます研究に没頭していく。
なぜお姉さんがペンギンを生み出すのか。街で起こる不思議な現象と並行して、アオヤマ君の研究の様子を、物語は描いていく。
お姉さんの体調の法則性*2や様々な要素をできる限り調べ尽くし、アオヤマ君は「理解しよう」と試みる。
ただでさえ、小学4年生の−−10歳前後の少年にとって、母親以外の成人した女性は未知そのもので、理解の埒外にあるものだ。
それはひょっとすると、コーラの缶がペンギンに変わってしまうほどに、わけのわからない存在なのかもしれない。一人の女性を理解するということは、少年(=男)にとって、「世界の果て」を知ることに等しいのだ。*3
それくらい、「他者(女性)を理解する」ことは難しいのだが、アオヤマ君がその壮大な困難に心折れることはない。
自分にとってかけがえのないものを“知る”ことに努力を惜しまない。その想いの尊さが、この作品では描かれている。
余談になるが、本作は主演の2人に職業声優ではなく、俳優を起用している。
だが、アニメファンの心配は杞憂で、この2人の声は北香那と蒼井優以外にありえない。*4
2.『寝ても覚めても』
※以降の文章は、『寝ても覚めても』の核心部分に触れています。
1.麦と亮平
一方『寝ても覚めても』は、女性が主人公の映画(小説)だ。
主人公の朝子は、作中の友人の評を借りれば「ふわふわしているように見えているんだけど、芯はまっすぐ通った女の子」だ。
この指摘は非常に的確で、物語終盤の「ある決断」は、まさにこの通りの行動を起こす。
朝子は大学生の頃、麦(ばく)と恋に落ちる。
放浪癖のある麦は友人の岡崎曰く「2〜3日いなくなることは普通」の存在で、朝子はそんな麦に不安を抱きながらも交際を続ける。
麦の端正な顔立ちと、ミステリアスな雰囲気に夢中だった朝子の恋は、「迎えにいく」と言いながらも、麦がとうとう行方をくらましたことをきっかけに終わった(かに見えた)。
大阪から東京に居を移して、朝子の社会人生活が始まる。勤め先のカフェの近くの会社で、偶然にも麦と瓜二つの男の亮平に出会う。
様々な偶然も手伝い、朝子と亮平は結婚秒読みの関係にまで発展していく。
朝子は友人に言う。「はじめは、亮平を『麦に似ている』から意識していた。だけど、今は亮平の人間性が好きで尊敬しているし、感謝もしている」。朝子は、今度は亮平と恋に落ちた(かに見えた)。
2.朝子は「不誠実」なのか
友人の結婚や妊娠という「次なるライフステージ」を体感し出したころ、朝子は麦の行方を思わぬ形で知る。放浪先の海外でスカウトされた麦は、芸能界入りし多くの女性を虜にする若手タレントになっていたのだ。
芸能活動の拠点は当然、今の朝子が暮らす東京だ。たまたま撮影現場の近くに居合わせた朝子は、麦が乗っているであろうスモーク貼りの送迎車に手を振る。「ありがとう、バイバイ」と言いながら。
朝子は、亮平の大阪本社への転勤をきっかけに、亮平との結婚を約束したのだ。つまり、麦の呪縛は断ち切った(かに見えた)。
大阪への引越し・婚約祝いとして友人に囲まれるレストランに、麦はやってくる。
「約束した通り、迎えに来たよ」
その言葉を受けて、麦の代わりに全てを捨てる朝子。麦もタレント活動をやめたと告げ、携帯を投げ捨てる。
一見すると、朝子はかなり不誠実な人間に見える。場面場面を切り取れば、最後に起こったことは「突拍子もないこと」や「その場限りの行動」だと糾弾でき、亮平が殺意を抱いても理解してしまう。
朝子は麦との車中で言う。
「今が夢なのか、それとも今までが夢だったのか、わからない」と。
3.時間の尺度
時間の尺度を「彼女が逃げた瞬間」ではなく、「これまでの彼女の8年間」として捉えてみる。すると、朝子が今まで麦に恋し続けていたのなら、彼女のとった行動は実は誰よりも誠実なものだったのではないか、と考えられる余地がある。
当時小説でこのシーン(に該当する部分)を読んだ時、世界がぐらつくような感覚を覚え、極端な話女性に恐怖心すら抱かねない心境になった。
それは、小説が朝子の一人称で進められることに起因する。
朝子はさも「当たり前」のように迎えに来た麦の手を取り、逃避行してしまう。そこに葛藤がまったく描かれていなかったからだ。
それ以来、僕にとってこの小説は長い間「理解できないもの」として心の中に残り続けた。
しかし改めて映画として、「朝子」という一人の女性を客観的に観ると、彼女の行為にはひょっとすると誰よりも一貫性があったように感じる。
朝子は「麦に恋し続けていた」し、「そんな自分を嫌悪していた」のだと思う。
象徴的なエピソードが、月に1回(おそらく5年ほど続けて)、被災地の復興バザーにボランティアに行っていることだ。そのことを友人から褒められた朝子は「“間違っていないこと”をしたかった」と言う。
それは謙遜からくる言葉ではない。「いつか、自分が(世間的に)間違ったことをする」、その曲げられない事実が恐ろしく、なおかつ抗えないことを知り、その埋め合わせかのように、奉仕活動を行なっていた側面があるのだ。*5
人知れず苦悩や葛藤があった朝子の行動を、監督自身は「非常に聡明なもので、全面的に支持する」とインタビューやコメントで何度も発言している。
彼女の生き方は、まるでロングセットのミニマルテクノのDJのようだ。EDMのような派手な音色がないように思え、着実に来るべきクライマックスに向けて幾重にもリズムを重ねるような……。
そんな静かで固い意思を、朝子はずっと持っていたのだ。
3.誰が、「他者の理解」をするのか
いざ書き始めるとかなり長くなってしまったが、この記事のまとめとして、表題について書いていきたい。
この記事で挙げた両作品の共通点は、「他者(特に女性)の理解(の難解さ)」であると思う。
一方で「“誰”が理解すべき」かは、それぞれ異なっている。
『ペンギン・ハイウェイ』は主人公のアオヤマ君がお姉さんへの理解を深めるものであるが、『寝ても覚めても』は「観客自身」が朝子を理解できるか、を問うている。
彼女の行為は、果たして短絡的なものだったのか。小説と映画を行き来した僕は、朝子の捉え方が変容し出している。
あるいは、僕たちの生きる現実世界に目を向けてみる。不倫などの略奪愛のバッシングは、世間一般で「常識」となりつつある。
それは関係のない人間が娯楽代わりにするべき行為なのだろうか?
朝子や、世間の略奪愛に向かう負の感情は、おそらく「義憤」というものだろう。しかし彼らの物語に、それまでの背景を知らない人間の「一方的な正義感」が入り込む余地はあるのだろうか。
問いかけがループしていきそうなのでここで止めにするが、両作を観終えた後、そんな思考がにわかに立ち上がってきた。
他者を理解することは難しい。だが、知ろうともせずに拳を向けることは、愚かな行為なんだと思う。