海辺にただようエトセトラ

音楽や映画、本の感想をつらつらと。

たかが世界の終わり/It’s only the end of the world

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「Mommy マミー」「わたしはロランス」などで高い評価を受けるカナダの若手監督グザビエ・ドランが、「エディット・ピアフ 愛の讃歌」のマリオン・コティヤール、「アデル、ブルーは熱い色」のレア・セドゥー、「ハンニバル・ライジング」のギャスパー・ウリエルらフランス映画界を代表する実力派キャスト共演で撮りあげた人間ドラマ。劇作家ジャン=リュック・ラガルスの舞台劇「まさに世界の終わり」を原作に、自分の死期が近いことを伝えるため12年ぶりに帰郷した若手作家の苦悩と家族の葛藤や愛を描き、第69回カンヌ国際映画祭でグランプリに輝いた。若手作家のルイは自分がもうすぐ死ぬことを知らせるため、長らく疎遠にしていた母や兄夫婦、妹が暮らす故郷へ帰ってくる。しかし家族と他愛のない会話を交わすうちに、告白するタイミングを失ってしまい……。(http://eiga.com/movie/84621/)

9.5/10

他人との距離が掴めず、本心をどこまで/どのように伝えていいのか分からないことがよくある。家族であればなおさらだ。「ここまでなら言っても良い」「言わなくても分かってくれる」という、家族だからこそ生まれてしまう、2つの「甘え」。これのせいで、肝心のことは伝えられない。
世界中の映画ファンを虜にしているドランの最新作では、そんなもどかしさや切なさを抱える家族の会話劇のみで構成された一本だ。
劇中に説明はほとんどない。主人公ルイが一体どんな病気に冒されているのか、残された時間はどれくらいなのか。物語に必要とされている背景を省いてしまう。不親切に見えるかもしれない。だが、こうすることによってカメラのピントが合うように、ドラン本人の描きたいテーマが鋭利に浮かび上がるのだ。

一般的な家族の在り方は分からないが、ここにある家族の緊張感は、僕にとってとてもリアルだった。
誰もが先述した「甘え」を持って接してしまう。不器用で感情的なあまり、不必要に傷つけ合ってしまう。僕はそれが嫌でいつも黙っていたが、黙ることすら罪になってしまう(ルイと母親の会話シーンのように)。そういう意味では切り出そうとしても切り出せないルイの態度は、もどかしさもあるがかなり共感できた。

本作の評を見るとキレイに賛否両論で、「否」のほとんどが「登場人物の心情を理解できない」「自分勝手な人物が多すぎる」というものだ。だが、そういった理解しがたい言動があっても、危ういバランスの中で「家」という形は保たれている。そういった、家族という枠組みの強さ(であり、儚さ)をドランは描きたかったのではないだろうか。

【以下、微ネタバレ】

否定的な観客にとって最も理解できないシーンの一つは、ラストの兄の行動だろう。ルイが意を決して家族に自身のことを伝えようとする最後のチャンスを奪い、家に送り返そうとするシーンだ。確かに、一見すればあまりに残酷なシーンだ。しかし、果たしてルイはあの場で病気のことを伝えたら、今後この家に足を踏み入れることはあったのだろうか?

「伝える責任」を持って12年振りに戻った彼は、責任を果たしてしまったら最後、もう二度と戻ってこないように思えてならない。逆に言えば「伝える責任」がある以上、伝えていない限り家に戻り続ける必要があるのだ。

兄はそのことを察して(あるいは僕らの観ていない車中の会話で真実を知り)、少しでも自分たちが「家族である時間」を引き延ばそうと考えたのではないだろうか。そう考えると母たちの罵倒を受けて、怒りよりも悲しみが先行したあの表情にも納得がいく。彼なりのねじれた家族への愛を否定された気持ちになったのだろうと想像する。

あまりに観客に与えた「解釈の余白」が多いので、物語を楽しみにしていた人にとっては、求めていたものとは違う作品なのかもしれない。

しかし「理解できない」と突っぱねるのは簡単で、理解しようとすると難しいこの作品は、人間関係に直結している気がする。複雑なものを簡単にして伝えると、その分こぼれ落ちてしまうものがある。だからこそ、複雑なものを複雑なままに見せてくれたこの映画で、僕らは考えさせられ、その先で何かを改めたいと思える。単純な癒しが救いになっても良いが、複雑に傷つくことも救いにもなりえるのだ。

このような忘れがたいフィルムをつくり上げてくれたドランに感謝したい。本作が米アカデミー賞外国語映画賞)を取れるのかは分からないが、僕の中では間違いなく今年の1本となった。