海辺にただようエトセトラ

音楽や映画、本の感想をつらつらと。

わたしたちの家

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2017年PFFアワードグランプリ受賞作品で、東京藝術大学大学院で黒沢清諏訪敦彦に師事した清原惟監督の劇場デビュー作。父親が失踪して以来、母の桐子と2人暮らしをするセリはもうすぐ14歳になるが、母に新しい恋人ができたことで複雑な気持ちになっていた。一方、目が覚めるとフェリーに乗っていたさなは、自分に関する記憶をなくなっていた。自分がどこからこのフェリーに乗ったかも思い出せない。あてのないさなは船の中で出会った透子という女性の家に住まわせてもらうことになる。父親を失ったセリ、記憶を失ったさな、まったく別々の2つの物語が一軒の同じ家の中で進行していく。http://eiga.com/movie/87918/より)

9.4/10.0

かなり、言葉に表すのが難しい映画だ
不気味な雰囲気や先の読めない展開にはサスペンス・ホラー要素を感じるし、さまざまな年代の女性のノスタルジックな青春ムービーとしての要素も併せ持っている。おそらく、他の人が観たら万華鏡のように異なる印象を与える映画なのだろう。

そう思わせる要素の一つは、この映画の「説明不足」な点にある(説明不足、と書くと少し語弊があるけど)。

例えば、冒頭でセリが受け取るメールの数字。友人が何の数字なのかを尋ねると「(車の)ナンバーだよ」と答えている。しかし、後にこの言葉が伏線となるような「分かりやすい物語的なカタルシス」は、この映画に存在しない。

「メールの送り主は?」「セリの依頼の意図は何なのか?」「その数字が今後の彼女の人生にどう影響するのか?」--複数の考えを巡らす自分の思考の時間軸と、一時停止ができない映画が同時進行するさまは、とてもエキサイティングだ(この強制的に進行していく“ライブ感”は、家では味わえない気持ち良さだ)。心地いい疲労感に包まれる。

そもそもこの映画の設定そのものが奇妙で不可解だ。全く同じ家に住む(しかし、住んでいる世界は違う)2組の主役たちには、徹底的につながりや共通項を排されて物語は進む。築90年(確か)を超えるという舞台の家屋は、かつては商店だったこともあり複雑な構造だ。階段や物置の位置が一般的な家よりも「ねじれ」ている様は、この映画そのものの構造の「複雑さ」や「ねじれ」を表現しているようだった。

また、「家に住む人」や「住む人の感情」によって「家の表情」が変わるのも興味深かった。恐らく撮影手法や美術などの工夫の果てにできた画なのだろうが、何やら違法めいた地下活動を行っているであろう透子と記憶を失ったさなのパートでは、少し朽ちた印象を与える。不穏なやりとりの多いこのパートの世界の終わりを暗喩しているようだった。

対するセリのパートも古い家には違いないが、どこか暖かい印象を受ける。母親の再婚に対する複雑な想いや、少女の少しの冒険を受け入れるおおらかさを、この家は持っている。

捉えどころのない作品を前にして「文学的だ」と表現することは安直過ぎるので好きではないが、この映画は小説を読んだ時の味わいを映像でも感じられるという意味では、非常に文学的だと思う。

ひとまずこれを第一稿とし、2回目の鑑賞に行きたいと思います。