海辺にただようエトセトラ

音楽や映画、本の感想をつらつらと。

今日の1曲 #1-鬼「小名浜」(2008年)

コンスタントに文章書いていかないとダメだなと思い、曲単位での紹介記事を週3ペース(願望)でお送りします。
文章を読んで興味持ってくれた方にすぐ聞いてもらいたいと思うので、なるべくオフィシャルでYouTubeに上がっている楽曲を紹介予定(サンクラなどの埋め込みで対応する場合もあるかと)。

個人的にはアルバム単位でそのアーティストが持つ世界観にひたる方が好きなのですが、配信やサブスクリプションが盛んな昨今、むしろ普段音楽に積極的に触れない人が1曲でも多く触れる方がリスナーの母数も増えるのかなとも思ったり。

前口上はここら辺にして、本日の曲を紹介します。今年ようやくカムバックを果たしたラッパー、鬼の代表曲。

鬼「小名浜」(鬼一家『赤落』収録)2008年発表

自身の地元であるいわき市の港町をタイトルにしたこの曲は、自叙伝めいた作品となっており、淡々と綴られる彼の壮絶な過去に衝撃を受けた。しかし、発表当初から絶大な支持を受け今も名曲として語り継がれている理由は、やはり巧みに織り交ぜられた比喩や詩的な表現にある。

以下、歌詞を引用しながら本曲を紹介していきたい。

※歌詞は聞き起こし

部落育ち 団地の鍵っ子 駄菓子屋集合 近所のガキんちょ
ヤクザの倅か母子家庭 親父がいたのも七つの歳まで
二歳の妹がいようと死のうとするお袋に「帰ろうよ。僕が守るから大丈夫」
光るタンカー埠頭の解放区 目まぐるしく変わる生活 決して贅沢なく 御馳走の絵描く
お袋は包丁 妹は泣きっ面 馬の骨の罵声はサディスティックだ
水商売 母一人子二人 薄暗い部屋で眺めた小遣い
馬の暴力は虐待と化す 十三の八月 何かが始まる
中学卒業も更正院 数年後には準構成員
旅打ちはまるで小名浜のカモメ 行ったり来たりが歩幅なのかもね

曲の冒頭では鬼本人の出自や家庭環境が端的に描写される。彼は自殺願望のあるシングルマザーと、虐待を繰り返す内縁の夫(=馬の骨)のもとで育った。

13歳の「あること」を契機に少年院に入所し、極道入りした少年時代を「港で漂う小名浜のカモメ(=善悪のラインをふらふらと踏み越えてしまう社会性の欠如)」に例えて歌う部分が前半のハイライトだ。

そんなある種の諦念を感じさせる歌詞に続いて、視点は「小名浜」という街そのものや、そこで育った仲間たちに移っていく。

くじけた背中を洗うソープ嬢 泡と流す殺気立つ毒を
小名浜港は油で濁す 必要悪があくまで美徳
汽笛鳴く港町の酒場で 朝まで飲み明かした仲間へ

鬼本人は小名浜のことをインタビュー「単なる地元」「『エロと港』って感じ(笑)」とドライに語るが、街を眺める視線の鋭さが上記のラインでも分かる。 恐らく堅気ではない「ソープに通う男(鬼本人とも取れる)」や「油で汚れる海」を描写し、街の経済の基盤(=「エロと港」)を「必要悪」と語る感性と言ったら!

15の夜バリに自爆レース ダイスケが死んだのも実家の近くです
懲役も満期でテンパイ ハチロウの病死 オヤジ呟く面会
ナオの受信で知ったオリカサの他界 この塀は高い

以降の歌詞では、服役中に友の訃報を聞く本人の無力感を「塀の高さ」を比喩にして描く。関係者以外には一切分からない個人名が並ぶが、固有名詞の持つ「リアルさ」が一層この曲をドラマティックにする。彼らの葬儀にも立ち会えない、「この塀は高い」の一言に胸が締め付けられる。

独房は妙に暖かい 日差しも美と知る 落葉の赤落ちて
寂しさの中で寂しさが美しいと知る 秋の優しさと赤落ちはいる
昔見た地図 再び睨み 行き交うハスラーの中軸と信じ合う

続く歌詞では独居房という、刑務所の中でも特に孤独な場所で得た感傷を詩に昇華する。恐らく秋に紅葉が舞う様を「赤落ち(=実刑が確定し、刑務所へ行くことを表す隠語)」に例えつつ、人生の立て直しを「昔見た地図 再び睨み」と誓っているのだろう。

彼が一体何の罪で二度の服役(※2008年当時)を経験したのかは、ここには描かれない。それは、ハードコアなヒップホップで描かれがちな「悪さ自慢」に終止するのではなく、劣悪な環境を抜け出し、仲間と真っ当な生活を歩むことを目指しているからに思える。事実、この曲は以下の歌詞で締められる。

下らんことでバカ笑い出来る仲間が今も此処にいる それが「リアル」
続く此処から 江戸の小名浜 渇かぬ鬼の赤い目に 愛が見えませんか?

小名浜の汽笛を 背に受け 港へ向かえ
小名浜の汽笛を 背に受け 都で歌え
小名浜の汽笛を 背に受け 港へ向かえ
小名浜の汽笛を 背に受け 都で歌え

彼は現在、歌舞伎町を活動の拠点としバーの経営なども行なっている。
これからも雑多な街をシニカルなラップで描写し、楽しませてほしいと思う。